面影⑨

中編
中編

あれからもう、1年経つんだなぁ…。

「恭ちゃん、携帯鳴ってるよ。」
「あ、ほんとだ。」

マナーモードの携帯がジジジと鈍い音で震えていた。
ちょっとごめん、と言って俺は店の外に出た。


「松島さん、お休みの日にごめんなさいね…」

電話の相手は、翌日アポイントが入っている顧客だった。

「高田様、大丈夫ですよ、どうしました?」

暫く会話をして、俺は電話を切った。


(よし。これで上手くいけば、今月も余裕でノルマ達成だな。)

スマホのスケジュール管理アプリを開き、【明日の14時高田様】の箇所を
18時に変更し、【プラスで息子夫婦、乗り換え希望】と書き加えた。

席に戻ると、リナがパンケーキを食べ終わったところだった。

「お仕事の電話?」

「そうだよ。」

「いいお話だった?」

「うん、まぁ…、頑張るよ。」

今の保険代理店に入社して、2年経った。
入社して1年間は全く成績が上がらず、毎日事務所に戻るのが苦痛だった。


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リナと初めて会った日の3日前、俺は社長に辞表を出していた。

正直、もううんざりだった、何も契約が取れず事務所に戻り、
リーダーに一日の活動結果を報告するとそこから小言が始まる。

「おい、来月ノルマ達成できなければ、翌月から給料半分になる事は
知ってるんだよなぁ…?」

10名の営業マンは5名ずつの2チームに分かれていて、それぞれのチームに
一人ずつ、リーダーがいる。

俺のリーダーは、銀縁眼鏡の厳つい男だった。

「はい、分かってます。」

半分開き直って俺は答えた。

今この会社を辞めても、暫く暮らせるだけの貯金はある。
ホストで稼いだ金が、まだ手付かずのまま口座に残っていた。

そろそろタワマンにでも引っ越そうかと、調子に乗っていた
矢先に襲われた為、大金を使う機会を失ったままだったのだ。

この会社を辞めたらまた、夜の仕事に戻ろうかとも思っていた。
当然、雅也とは別の場所で…。


「昨日、社長に辞表を出しました。」

「そうか、それでいつ辞めるんだ?」

彼は顔色一つ変えずに聞いてきた。

「今月一杯で辞めます。」

すると彼は大きなため息をついて独り言のように言った。

「新人は決まってこの時期に辞めるんだよな〜。どうせ来月の末には
辞めざるを得ないんだから、最後まで一か八かやってみりゃいいのに。」


何を言われてもいい。

これ以上、自分の無能さを突きつけられる仕事などまっぴらだ。

「失礼します。」

と彼に背を向けて帰ったその2日後に、リナに会ったのだ。


リナに会った翌日から俺は、魂を抜かれた腑抜けになっていた。
アポイントも取らず、デスクで呆然と携帯の液晶画面を見つめていた。


そして数日が経ち、自分でもゾッとする程やつれた顔になっていた。

今日も彼女からの連絡はない…。

当たり前だ、こんなクズ男と彼女が釣り合うわけがない。
潔くあきらめよう…、そう思いながらも、俺は携帯が気になって仕方ない。


痺れを切らしたリーダーの罵声が飛んできた。

「おい!辞めるのは結構だけど、目障りだからどっか行け!
ここは職場なんだぞ、ふざけるな。」

「すみません、俺もこんなとこ居たくもないんですけど、
仕方ないんですよ、ほっといてくれませんか?」

リナに渡した名刺には、俺の携帯番号と、事務所の電話番号が
印刷されている。


もしも、彼女が携帯じゃなく、事務所の番号に掛けてきたらと思うと、
おちおち外回りの営業になど、行ってる場合ではなかった。

「ちょっと、いくら何でもリーダーに向かってその言い方はないんじゃない?」

隣りの席の結子さんが、俺の腕を突きながら小声で言った。

「リーダーって、あんな、人の事をコケにしてるだけじゃないですか。」
「シーッ!声がでかいっつーの。」

「聞こえてるぞ、まぁ、お前みたいにひよってる奴に何言われても
俺は気にしないけどな、、、」

その時だった…。

「松島さん、2番に電話はいってま~す。」
事務の女性が、向こうで手を振っている。

俺は咄嗟にリーダーを突き飛ばし、デスクの電話に飛びついた。

「はい、お電話変わりました、松島です、、、。」

胸の鼓動が大太鼓並みに鳴り響いている。

受話器の向こうから聞こえる、少しハスキーな甘い声…、リナだ。

俺は嬉しさのあまり気絶しそうだったが、すぐ近くで、
リーダーと結子さんが、俺の顔をガン見しているのに気付き、
寸前で正気を取り戻した。

「はい、今日ですね、、、大丈夫です。 恵比寿、はい、近くです、
18時には行けます、ありがとうございます。」

電話が切れた後も、俺はリーダーのデスクで暫く受話器を握ったまま
立ち尽くしていた。

「おい、アポ、とれたのか?」

リーダーが俺の顔を覗き込んでいる。

「は、はい! やりました!」

俺は思わず歓喜の声を上げた。

「やったわね、おめでとう、お客さんから掛けてくれるなんて
凄いじゃない!松島君。」

「商品はなんだ?結子ちゃん、持っていくもの教えてあげて」
リーダーは何やらウキウキしながら結子さんに指示をした。

時計を見ると17時20分だ、恵比寿ならここから10分もあれば余裕だが、
もう出る事にした。

「あ、大丈夫なんで、もう帰ります、お先に失礼します。」

「お、おい、大丈夫ってなんだ?帰るのか…?」

そんな声はもう、俺の耳には届かなかった。

あとは、全身全霊で彼女を落とす、それだけだ…。