「美香の気持ちは分かったよ…、話してくれてありがとう。」
私は夏美に相談した日の夜、武史に自分の気持ちを素直に伝えた。
「ただ、美香が避妊をするって言うのはどうかな…、」
「どうかなって…?」
武史はゆっくりとこちらに身体を向けた。
「避妊具を装着したり、薬を服用するって事は、美香の身体にだって多少は
負担がかかるんだよ。」
「分かってる、でも、私なら平気よ…ダメなの…?」
「ダメっていうか、なにもそこまでする事ないんじゃないかなって…。」
「そこまでって…、私はただ、望まない命を作りたくないだけよ。」
「望まない命なんて言い方はよせよ!少なくとも…俺は、美香との子供を
望んでいるんだから…。」
武史から、こんな強い口調で言われたのは、この時が初めてだった。
「……。」
私は、ただ俯く事しか出来なかった。
子供が欲しいと言った武史の気持ちに応えなかっただけでなく、
それを望まない命とまで言った私に対して、精一杯の皮肉だったのだろう。
しかし、この時の私には、そんな彼の気持ちを気遣う余裕すらなかった。
ただ、一方的に悪者にされたような不快感が、私の心の奥底で
ぐるぐると渦巻いている。
武史の顔を見ることが出来ない…。
永遠に続くかのような長い沈黙に耐えられず、私は黙ったまま、
ハンドバッグを持って外に出た。
駅前のカフェに向かって歩いていたが、やっぱり近くの
居酒屋に入る事にした。
テーブル席はサラリーマンで一杯だった。
私はカウンター席に座ってハイボールを頼み、大ジョッキのハイボールを
一気に飲み干した。
「もう一杯下さい。」
店主から2杯目のジョッキを受け取ると、また一気に喉へ流し込んだ。
その時、携帯の着信音が鳴り、私は急いで会計を済ませて外に出た。
着信音は、切れるとまたすぐに鳴り出す。
相手はやっぱり武史だった。
「もしもし…。」
「美香、こんな時間にどこまで行っちゃったの?」
「ごめんなさい。大丈夫、、、もう少し風にあたって帰るわ、、、」
「もしかして、酔ってるの…?」
「…ごめんなさい、先に寝てて、、、」
急に酔いが回り、慌てて電話を切った。
駅に隣接しているデパートは、もう何処も閉まっている。
私はお酒の酔いに身を任せたまま、駅の構内に向かって歩いた。
改札口の前まで来ると、突然とてつもない寂しさが込み上げてきた。
気付くと私は電話を掛けていた。。
「こんな時間にどうしたの…?」
あぁ、やっぱり私、この声が一番好きよ…。
「今から行ってもいい?」
「何言ってんの、駄目に決まってるでしょ…」
「A氏と一緒なの?」
「違うよ。」
嘘よ、彼はソファーに寝ころんであなたを見ているはず…。
「一緒にお風呂入ろう…。」
「美香ちゃん、旦那と喧嘩しちゃったの?」
あ~ぁ、そんな言葉は聴きたくないわ…。
「トオル君、私の事好きでしょ…?」
「好きだよ。」
ウレシイ、シアワセ…。
「じゃあ、抱いてよ。」
「なに…もぉ、そんな事言っちゃ駄目だよ。」
嫌よ、何度でも言うわ。
「どうして…?」
「美香ちゃんは、僕の大切な友達だから。」
「僕には恋人がいるから駄目なんだよって言ったらいいじゃない。」
「嫌だよ…、美香ちゃんは僕にとって、凄く特別なんだ…。」
「…いっそのこと、キッパリと振ってよ…。」
「まったく…、今日はどうしてそんな事言ってるの?」
困っているトオル君の声が聴きたいから…。
「ねぇ、嫌いだって言って…。」
「言わないよ。」
「言ってよ…、ほら、面倒くさい女は嫌いだって…、言って。」
「もぉ…、怒るよ。一体どれだけ飲んだの…?酔い過ぎ…。」
たくさん飲んだわ、トオル君に怒って欲しくて…。
「嫌いになった?」
「好きだよ。」
「…私は、嫌いよ。」
「いいよ。」
「あなたに…会いたいのよ…。」
「またお店においで。」
やっぱりね…、言うと思ったわ。
「意地悪ね…。」
「美香ちゃんの髪をカットできるのは僕だけだからね。」
そうよ、12歳のあの日から、私の髪はトオル君だけのものだから。
「ふふっ、もういいわよ。おやすみなさい…。」
電話を切った後、私は暫くその場で立ち尽くしたまま、構内を行き交う人々を
ただぼんやりと眺めていた。
どのくらい時間が経ったのだろう、腕時計の針が夜の11時を指していた。
駅の外に出ると嘘のように酔いが醒め、私はまた現実に引き戻された。
「はぁ…。」
自然に溜息が出る。
マンションに着いて、エレベーターから降りると、玄関前で
武史が立っていた。
「美香…。」
武史は顔を見るなり、私を静かに抱き寄せた。
「心配したよ…。」
「心配かけて、ごめんなさい。」
「もう、いいよ。無事に帰って来てくれたんだから。」
武史は玄関のドアを開けると私の肩を抱いたまま中に入った。