リナと付き合える事になって、灰色の人生に光が差した。
何度目かのデートで、初めてキスをした日の帰り道、
俺は、通りすがりの全ての生き物に、ハグをしたい気分だった。
そして、ふと我に返った。
(辞表、出してたんだっけ…。)
次の日の朝、俺は社長室に直行し、辞表の取り消しを申し出た。
「そうですか、それは良かった。ただ、一時は辞めると決意したのを、
突然、覆した理由を教えてもらえますか?」
「そ、それは…、彼女が出来たからです。」
それしか理由がなかったので、正直にそう答えた。
「ほう、それは素晴らしい…、実に賢明ですね。」
社長は笑いもせず、まじめな顔でそう言った。
「社長!俺、できる営業マンになりたいです。どうしたらなれますか?」
「やっと、やる気になりましたね。」
そう言ったかと思うと、社長はリーダーを呼び出した。
「柏木リーダー、急で申し訳ないが、今日から松島君をお願いしてもいいですか?」
「え、同行ですか…? は、はぁ、でも彼は今月で辞めると聞きましたが…、
それにやる気もない様ですし、、、」
「彼が辞めて一番困るのは柏木君、君じゃないんですか?四の五の言わずに、
来月のノルマを達成させて下さい。君の手当にも十分影響する事を
忘れないで下さいね。」
社長のいつになく厳しい口調に、俺は驚いた。
「はい…承知しました。」
リーダーは、静かに答えた。
席に戻ると彼は、銀縁眼鏡の奥から鋭い眼差しを向けて言った。
「とにかく無駄に口を開くな。黙って愛想よくして俺の横についてろ。いいな。」
「はい、承知しました。」
俺はさっき、社長に注意された時の彼の真似をして言った。
「チッ。」
彼は舌打ちをして「ついて来い。」と言った。
そして彼が担当している企業に、俺を連れて行った。
彼は自動扉を抜けると、正面の受付に向かって颯爽と歩いて行った。
そして、受付嬢と冗談を交わし、さっさと事務所に入っていった。
俺は、ほとんど顔パスで受付を済ませた事に驚き、慌てて彼の後を追った。
事務所に入ると彼はすでに重役っぽい男性と談笑していた。
それだけではない、彼が来たことに気づいた社員の人が
あれやこれやと話しかけていた。
そして、何よりも驚いたのは彼の表情だ。
さっきまでの厳つい顔が、別人級の爽やかな笑顔に変わっていた。
年配の女性職員がニコニコと近づいて来て、俺の顔をまじまじと見つめた。
それから、リーダーの肩をポンと叩いて挨拶をした。
「柏木さん、今日は新人さん連れて、何かの研修?」
「えぇ、まぁそれもありますけど、彼イケメンだから、佐藤さんが喜ぶと思って
連れて来たんですよ。」
「まぁ、さすが柏木さん、気が利くじゃない、アハハ!」
(おいおい、昭和かよ、セクハラだろうが…。)
「ところで、この前の件、代表に話しておいたわよ、今日の夕方戻ったら
電話してほしいってさ、期待していいかもね。」
「佐藤さん、いつも恩に着ます。」
「うふふ、いいのよ、こちらこそお世話になってるんだからさ。」
ほんの15分ほどの間に、何人もが彼に寄ってきて、
世間話や冗談で盛り上がっていた。
終わって外に出てから、早速、彼に聞いた。
「新商品の説明、しなくてよかったんですか?」
「そんなの、興味ない人間に話したところで時間の無駄だろ。」
「え、でも…、さっきは無駄話で終わったじゃないですか。」
「いいんだよ、無駄じゃねぇんだから。」
「……。」
俺は社長がリーダーに任せた理由が分からなかった。
早くしないと来月俺は減給されてしまう。
それはある意味クビを意味していた。
「なに突っ立ってんだ、次、行くぞ。」
「あ、はい。」
俺はとりあえず彼の後についていった。
個人の顧客訪問でも、彼は爽やかな青年になりすまし、雑談をして帰ってきた。
その日の活動報告書には、雑談ばかりで何も参考にならなかったと書き、
それをリーダーに渡した。
リーダーはそれを見ても顔色一つ変えなかった。
そして「明日は今日よりも大きな声で挨拶をしろよ。」とだけ言った。
それから俺は、毎日リーダーと一緒に営業に回った。
俺には雑談をしているだけにしか思えなかったが、それでも不思議と
リーダーの契約は成立し、いつの間にかグラフが天井まで伸びていた。
ある日、同じチームで、俺より2,3年早く入社した二人の先輩が、話しかけてきた。
「松島さん、柏木リーダーに同行してもらってるんですね、いいなぁ、
僕が新人の頃は、そんなことして貰えなかったから、羨ましいですよ。」
「そうそう、俺も前に1度だけ同行して貰った時は嬉しくて、
リーダーの言った事や行動を夢中で記録して、後は自力で学んだよ。
松島君は1週間でしょ?」
「はい、ありがたいですよ、ほんとに…。」
確かに初めはリーダーに不信感を抱いていたが、よく観察していると
学ぶべき事がたくさん見えてきた。
俺はリナと付き合うからには、社会人としてカッコイイ男になりたかった。
そして、柏木リーダーや結子さんの様に、トップの座を競うほどの
営業マンになりたい…。
俺はいつからか、リーダーの行動や言動を、すべて真似する様になった。
そして翌月、ギリギリでノルマを達成する事が出来た。
それを機に仕事が楽しくなり、やりがいさえも感じるようになっていった。
そして1年経った今、俺は毎月のノルマを確実にこなせるまでに成長した。