時空の旅に出る㊶

長編
長編

あちらこちらで桜が蕾を膨らませる頃、武史は転職した。

商社勤務の時に比べると年収は下がるが、業績は右肩上がりの会社で、
彼は以前よりもやりがいを感じているようだった。

語学力に加え、得意のコミュニケーション能力と圧倒的な営業力を発揮し、
大きなプロジェクトを任される様になるまで、それ程時間は掛からなかった。

従業員も少人数の会社で、時間に縛りがなく、各々が好きな時間に
業務に専念できる環境だと、彼は楽しそうに私に話して聞かせた。



やがて武史は、通勤用に外車のSUVを購入した。

「通勤用にしては随分アクティブな車にしたのね。」

「うん、カッコイイだろ? 前から欲しかったんだ。それにこの先、
家族でキャンプや海に行く時、このタイプの方がいいかなって…。」

武史はまるで、少年の様に目を輝かせて言った。



私がパートや稽古から帰ると、先に武史が帰っていることもあった。

彼の書斎から、リモート会議をしている声が微かに聞こえたりする。

冷蔵庫を開けると、買った覚えのない食材が入っていたり、時には、
武史が作ったと思われる焼きそばやチャーハンなどがラップに掛かって
入っていることもあった。

それでいて、キッチンのシンク周りはいつも綺麗に片付いている。

「こう見えて俺、けっこう料理とか掃除は得意なんだぜ。」

武史がいつもの様に、得意気な顔で言った。

「それなら私も助かるわ。お稽古の回数も増やしたいと思ってたし。」

「そっか、それじゃあこれからは、お互いに連絡を取り合って、
早く帰れる方が夕飯をつくるっていうのはどうかな…?」

「え? そこまでしてもらうなんて悪いわよ、私はパートなんだし。」

「そんな事関係ないよ、それに俺は、稽古をしている美香が好きなんだ。
今回、美香の実家に茶室を作るのだって、ずっと続けて欲しいからだよ。」

「で、でも…。」



今年の初め、二人で私の実家に行った時、話の流れで、母が洋裁教室に
使っていた部屋を、私の為に茶室にしてくれることになった。

結構な費用が掛かったが、なんのためらいもなく武史が全額出してくれた。


私は、武史や母に対して少し罪悪感を感じた。

二人に言われた事に対して、あれほど反感を抱いておきながら、
自分がしてもらう事には、何食わぬ顔で受け入れる自分が疎ましかった。

「………。」

「遠慮しなくていいんだよ、今までずっと美香一人で頑張ってくれてたんだから…、
少しくらい俺に甘えてよ、ね!」

「本当にいいの…?」

「いいに決まってるだろ、美香は俺の大切な奥さんなんだから、
いつも笑ってて欲しいんだよ。」

「優しいのね…。」

心の中で灰色のモヤモヤした感情がうごめく。

「美香だって、俺に優しくしてくれるでしょ、同じだよ。」

武史はそう言って私を抱き寄せた。


同じだろうか…? 一瞬、そんな疑問が頭をよぎった。

「俺、そろそろ子供欲しいな…。」

私を抱きしめながら、彼は静かに言った。

「え…えっと、そうね…、でもまだ今は…。」

突然言われて、しどろもどろになった。

「そんなに慌てなくても、今すぐって訳じゃないんだから…。」

武史がクスッと笑った。

「でも、美香もそろそろ考えて欲しいんだ。」

「分かった…、考えてみるわね。」


私はそう言いながら、そっと彼から離れ、キッチンに向かった。